≪ブログ感想≫ 「文化とculture」

 

投稿者:おしょーさん

 

大須賀さんのさんのブログ「文化とculture」には多くを気付かされました。

 

文化とculture

https://www.gosen-dojo.com/blog/45868/

 

「culture」には、「文化」以外に「栽培」という意味があると。

 

調べてみると、教養・洗練・訓練・修養・養殖・栽培・培養といった意味が、、、 これは『文化』と訳しては、いけないのではないでしょうか。

 

文化というよりは、教化・強要・殖民興産とかが適切な気がしてしまいます。

 

 

 投稿者:グッビオのオオカミさん

 

さすが、大須賀さん。

見事!の一言です。また、続編を楽しみにしています。

明日は日本人論を買って読もうと思います。

 

…ここからは、小林よしのり先生のお叱りを受けるかも知れません。

以下、思う所を述べようと思います。

私は私で、ちょっと思う所が出来て来ました。

 

キャンセルカルチャー、metoo運動.、人権の由来、アメリカの歴史、アメリカのプロテスタント福音派の動向。

フランス革命、ロシア革命…それらは結局はイギリスのピューリタン革命やドイツとフランスの宗教改革と無縁では無いだろうと思うのです。

 

宗教改革以降の哲学と、それ以前の哲学が本当に同じなのか。

私はザッと見る限り、哲学や人権思想と、革命と粛清の歴史と宗教改革は相関関係にあると思います。

 

キャンセルカルチャーの論理と心理の仕組みを知りたくなって来ました。 

 

そちらの方を並行して、独自に調べたいと思いました。

 

 

(管理人カレーせんべいのコメント)  

 

 

「文化」は英語で「culture」。

 

語源はラテン語の「colere」。

 

意味は「耕す」「培養する」ですね。

 

 

 

私個人の解釈としては文化とは「耕す」ことだと考えています。

 

その耕した時間を「歴史」と呼ぶのだと思います。

 

歴史を共有し、文化を形成してきた単位が「国民」だとも考えています。

 

 

だから、イデオロギーには警戒しなければならない。

 

なぜならイデオロギーは歴史を経由しないから。

 

いきなり「答え」として押し付けられちゃう。

 

危険な劇薬だ。

 

 

一方、歴史を経て形となった「文化」をなかったことにする(キャンセル)のは、歴史に対する冒とくであり、国民に対する冒とく。

 

 

 


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コメント: 4
  • #4

    グッビオのオオカミ (日曜日, 24 3月 2024 09:08)

    カレーせんべいさんの"文化は耕すもの"これは、深いですね。
    人の手が入らないのでも、ボサッと無為に待っているのでも無く、といって大自然の営みを無視するのでも無く、そうして必要に応じた工夫と努力もし続ける。
    良い言葉ですね。文化は耕す。

  • #3

    新米派 (土曜日, 23 3月 2024 22:41)

    農村出身者としては田畑を耕す「カルチベータ」という呼び名とその機械音はたまに聞きます。発音が似ているのにそれとカルチャーとが語源を共有していることは西部邁さんの文章を読むまで気付きませんでした。

    語源に触れながら単語の本義を探求することは、西部さんやその影響を受けた小林よしのり先生が時折用いる論法です。ただし個人的な理解としては、語源学は話のマクラや余談としてなら結構なのですが、語源がその単語(及び概念)の本質を定義するとまでは思えません。
    ある単語が、誤用と指摘されつつも当初の語義とは真逆の意味で使用されることが定着してしまった、という現象は珍しくないからです。

    語源学が賞賛語と非難語の分類を豊かにしてくれることは確かです。しかし賞賛語にせよ非難語にせよ、それがどういう場合に該当するのかを精査することが目的なのであって、味方を持ち上げる賞賛語と敵を貶める非難語の語彙を拡大して満足したかったわけではないはずです。

    論敵に対しては素っ気なく「文脈破綻/論理矛盾/支離滅裂/感情的/同義反復/不明瞭」と斬り捨てつつ、仲間が書いたことなら「矛盾を引き受ける勇気/曖昧さを敢えて残す保守の知恵/歴史への感受性が高い者にだけ解る本質/思索の複雑性に耐える心構え」とスピリチュアル性すら漂う賛辞を大安売りする事象は、かつての保守系論壇誌の投書欄などでよく見受けられました(今でもそうかも知れませんが)。

    最近ではカルトが非難語としてよく聞かれますが、これも賞賛語であるカルチャーと語源は同じらしいです。しかし、だからと言ってカルト≒文化という図式は保守思想としてはおよそ同意できないでしょう。
    かつての社会主義者は、内外の敵に対して「日和見主義/修正志向/転向者/反革命/分派活動/忠誠不足」云々とバラエティ豊かな悪罵を投げつけていましたが、それらは結局のところ「わたしのキライなヤツ」と代入するだけで意味が通ってしまう単語に過ぎませんでした。自分の言語表現が、先輩たちの示してくれた虚しさをなぞってはいないか常に戒めたいところです。

  • #2

    パワーホール (土曜日, 23 3月 2024 20:35)

    コロナ騒動で、「マスクは文化」、「感染対策を文化に」との主張がありましたが、違和感を感じずにはいられませんでした。大須賀さんが”生育の過程や結果(収穫)を、可能な限り人間の思惑通りにコントロールしようとする行為"とカルチャーの意味をおっしゃっていますが、マスクや感染対策はまさしくこれに当てはまると思います。マスクや感染対策は人為的かつ意図的に社会に浸透したものですし、長い歴史を通して醸成されてきた「生活」・「文化」を蹂躙したのは言うまでもありません。

  • #1

    サン (土曜日, 23 3月 2024 15:55)

    大須賀さんのDOJOブログ、面白いですよね

    「飛ぶ風船」の見方が東西で異なる、という調査結果があるようです。空を飛ぶ風船が急に速度を上げた理由は?という質問に、東洋人は「風が吹いたから」西洋人は「風船に穴が開いたから」と答えるようで、それは文化を語るうえでも同じではないでしょうか
    環境や周囲と折り合いをつけながら関わるか、直接的に関わるか、これが本当のカルチャー・ギャップかもしれません

    個人的には、文化とは世の東西よりもその連続性を遡った方が構造的に見えてくるものがあると考えるので、グッビオのオオカミさんの着眼点は素敵だなと