≪思想≫ 日本人と宗教

 

投稿者:グッビオのオオカミさん

  

 

文化庁、宗教法人への督促・過料怠る 法に基づく書類提出義務で | 毎日新聞

https://mainichi.jp/articles/20230208/k00/00m/010/148000c

 

宗教法人は法人の財産や役員名などを記した書類を年1回、文化庁などの所管庁に提出する義務を負う。

所管庁は提出がない場合は督促し、それでも応じない場合は10万円以下の過料に処するが、渡辺氏は未提出の事例が多数あると指摘した。

渡辺氏は続けて、宗教法人は税制優遇の対象のため放置したままでは活動実態のない法人格が営利目的などに悪用されかねないとの認識を示した(本文より)

 

 

日本はあまりにも宗教法人を「性善説」で考えすぎています。

 

信教の自由を持ち出し、オウム真理教を擁護するコメンテーターが出て来るし、昨今の統一協会問題でも、行政のチェック機能の甘さを感じます。

 

 

日本人は宗教リテラシーが無さ過ぎます。

 

宗教と言えば、人前で言ってはいけない事として扱い過ぎるのです。

 

実はコロナ禍とも似たような所もあり「権威」に弱く、根拠と論理で向き合おうとしない。

 

それはタブーを恐れる以上に、他者の論理について行けない、それは読書する習慣が無い「活字離れ」と非常に関係が深いのだろうとも思います。

 

そして「死」を忘れ、安易に薄っぺらい「心の癒し」だけを求める自己保存願望はそのまま「反戦平和主義」の''安心教''と性根は同じだと思います。

 

本当に、今の政府は腰が重いとつくづく思います。

 

こんな文化庁が統一協会に4回目の質問権の行使をしようとしています。

 

また、統一協会の報道の量が日に日に減っていると感じています。

 

信教の自由はある。しかし宗教だからと言えば何をやっても許される訳ではない事はハッキリすべきだと思います。

 

宗教法人格は宗教法人法によって税制上の優遇措置を受けているのです。

 

法のコントロールに置かれるべきであり、行政や市民社会に対し活動の説明責任を負うべきだと思います。

 

私は統一協会問題に関わる文化庁にもっとしっかりと宗教の暴走を防ぐ役割を果たして欲しいし、日本人には"世間"の先に一国民として、自国の社会問題の一つとして宗教リテラシーに関心を持って欲しいと思います。

 

 

 

(管理人カレーせんべいのコメント)  

 

日本人は宗教についての話題を避ける傾向にありますが、それは日本人はマジを避けるからだと思っています。

 

マジを避けるから真正面切っての主張はしない。見て見ぬフリをしたり、「世間」に合わせてしまう。

 

「コロナ禍」に対しても、「天皇制」に対しても、そして「死」に対してもそうだと思います。

 

見て見ぬふりや世間に合わせるのは、マジじゃない証拠です。

 


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コメント: 9
  • #9

    グッビオのオオカミ (月曜日, 13 2月 2023 22:07)

    遅ればせながら、カレーせんべいさん、掲載ありがとうございます。
    ここまでの書き込みも一通り拝読させて頂きました(さらに書き込んだ方の分もまた読みたいです)。
    昔からプロ野球と政治と宗教の話は営業先ではするな、と若い頃の営業課長に言われた事を思い出します(まあそりゃ営業中は余計な事でしょう、時と所と場合を考えるべきですね)。
    皇位継承も統一協会問題もコロナ禍も日本人はマジを避ける。
    カレーせんべいさんの指摘に私は納得です。
    だからこそテレビに弱い。
    世間体に弱く、根拠と論理に弱く、お上の権威に弱い。
    みんなと一緒なら安心を覚えるが、みんなと違うと不安を覚える。
    一つは小林先生の「戦争論」の論点の一つで個人と、公と、歴史と、「国家」の問題ですね。
    戦後民主主義で国家斉唱と国旗掲揚が忌み嫌われていた時期がかなり長期間あったと思います。
    そうして「国家」と「国民」への関心が無くなりました。
    だから「世間」に関心があっても、「国家」と「国民」には関心が無いのでしょう。ましてその将来など考えも及ばない。
    そして宗教。
    例えば「日本人は仏教だ」と言っても多数派がそうだと言うだけの話だし、徳川幕府が「寺請制度」を始めるまではそこまで「家の宗派」にはこだわっていなかっただろうと思います。
    江戸時代には檀家を世襲で継承させる代わりに、布教は禁じられたと言います。
    実際に仏教と言っても浄土系の念仏を唱える事と「他力」のベクトルと、臨済、曹洞の禅宗の「只管打座」の禅を修養するベクトルは本来なら180°違う真逆のベクトルでしょう。
    でも言います「日本人は仏教だ」
    ただ私は思います。仏教のどの宗派が正しいかどうかは置いても、#6のくれはさんが言う様に自身の所属している宗旨の大まかな教えは勉強する機会を持った方が良いとは思います。
    その上で他の宗旨との差に気付き、自分なりに研鑽する。
    そういう感覚はあっても良いとは思います。
    私はカルトの温床となっているのは「葬式仏教」の方だと思います。
    葬式仏教も法事の時に親戚が集まるいい機会ではあります。
    しかし、核家族化した孤独な社会で、悩む人に対し宗教的な心の拠り所になって来なかった事は、確かでしょう。伝統と言いつつも「形骸化」している、そこが問題だと思います。
    また欧州の政教分離には恐らく「王位」にはカトリック教会の「戴冠式」を要したからでは無いでしょうか?教会の権威とはまた別に、民主主義的に権威の所在をを各国が歴史的に模索したのではないかと思います。
    どこかで外国人同士の対談で紹介していた事ですが、ドイツなどではむしろカルト宗教の危険性を学校教育で教えると言いますし、必須科目の選択制でプロテスタントかカトリックかユダヤ教かイスラム教かを選んで勉強する仕組みになっているとか…(もしかしたら州ごとに違うかも知れません)。
    いずれにせよ、どの様な形であれ「宗教」を経験する事が無く、学ぶ機会が無い事は「何がカルトで何がそうでないか」を見分ける目を曇らせます。
    それは恐らく「死生観」につながると思います。
    日本人は「人それぞれだから」と言うセリフが大好きです。また「まあまあ(笑)」と笑ってごまかす事が大好きです。
    私はその考え方は「基本的な前提」を確認した後で言うべき台詞で、「根拠」と「論理」の基礎があって始めて言うべき台詞だと思います。
    実はこれは福島教授が記者会見で言っていた「国力、民力、知力が試されているんだ!」「何が大学だ!冗談じゃない!論文書いて悦に入ってるなんてのは愚の骨頂で単なる虚学だよ、実際に現実の問題解決に役立ててこその実学じゃないか!」「科学と言うのも一種の信仰であって、これが技術と結びつく時に善にも悪にもなる。だからこれをきちっと法の下の監視下に置く事が大切であって…」「医学と科学の危機ですよ、科学が滅ぶという事は国家滅ぶんだ」うろ覚えですが、これらの言葉に触発された所が大きいのです。
    宗教も聖書神学や仏教学や取り分け文献学があり、別に全く根拠の無い事を「思い込んでいる」のとは違うはずだからです。
    まずは読書離れ、活字離れを何とかしないといけませんね。
    長くなりました。


  • #8

    鎌倉三四郎 (月曜日, 13 2月 2023 19:22)

    日本人はマジを避ける。

    日本人には昔から「個人」や「社会」なんてなくて、最初から「世間」しかなかったからじゃないですか。

    思えばこういうネット上の議論も匿名のアカウントを使っていますが、これも日本人の性質ですよね。
    なぜ実名ではまずいのか。

    私は別に日本政府に言論弾圧されることを恐れている訳ではありません。
    警察に逮捕されることを恐れている訳ではありません。
    警察に逮捕される時は実名だろうが、匿名だろうが逮捕されます。

    私が匿名アカウントを使っている理由はやはり「世間」を恐れているからでしょう。

    職場や取引先にプライベートのやり取りが明かされることや、よく分からない人間から攻撃を受けて職場や家族に迷惑がかかることを恐れている。

    この私の恐れも日本人特有のものでしょう。
    阿部謹也氏の「世間とは何か」で宝くじが当たった時の日本人と外国人の反応の違いを書いていますが、日本人はやはり「自分と他人の区別が出来ない」のです。
    自分も他人も含めて全てが「世間」なのです。だから、宝くじに当たった人間の金の使い方を必要以上に詮索する。

    海外では個人主義が徹底しているから、他人の宝くじの金の使い方などに執着しない。
    自分は自分、他人は他人と割り切れるのでしょう。

    最近FacebookやLINEをプライベートで使っていて、「仕事で使え」と言われることが増えました。
    FacebookやLINEを仕事とプライベートに分ける方法をネットで検索したりしましたが、基本的に一人の人間は一つのアカウントしかつくれないことが分かり息苦しさを感じました。

    欧米人にはこういう悩みがないんでしょうね。
    「世間」ってなかなか定義出来ないものですが、欧米の「個人」「社会」と相入れない概念だと思います。
    自分も他人も全て含めて「世間」なんです。
    自分と相手を分けて考える欧米人には理解出来るはずがない思考方法ですよね。

  • #7

    ねこだるま (月曜日, 13 2月 2023 09:16)

    追記すると、頭がいいこと、弁が立つことに対して評価する文化、風俗がなかったってのもあると思ってます。

    ドイツだと議論好きでそこら辺のお婆ちゃんでも観光客相手に議論ふっかけたりするし、イギリスだと演説癖のある人が公園の大道芸として演説やってたりする。

    日本でも幕末の志士とかはすごい勉強してたし、富国強兵を推進してた人はアタマいいってことを武器にしてたんでしょうけど、庶民レベルで「アタマいいってカッコいい」みたいな文化がなかった。
    わずかに全共闘世代では、哲学書読んで理解してることがファッションになり得たようですが。

    「難しいこと考える」ことがファッション化してないと、「面倒臭いことはお上に任せて、周囲との和を」という処世術に流されがち、って面があったんじゃないか、と思ってます。

    まさかゴー宣読者が最後の砦ってこたないと思いますが(笑)。

  • #6

    くれは (日曜日, 12 2月 2023 15:47)

    宗教団体に入ることと、信仰心を持つことは同じではない、少々違うところもあると思います。組織に属さずともこの身一つ、心一つで信仰心はもつことが出来るからです。

    私の場合、父が観音信仰を持っていた人で(特定の宗教団体には入信せず)、また物凄い量の本を読む人でした。私もつられて読むようになりました。今思えば良い影響を受けましたね。

    仏教に興味を持つようになってからは、仏教関係の本や神社や神道関連の本をよく読みます。

    読んでいて思うのは、神でも仏でもそうですが、特に近年に出来た新興宗教団体の問題点は、神や仏の間に教祖が入り、本来なら教祖のはるか上にいる神仏よりも、目の前の教祖にだけ従ってしまうことだと思います。
     
    そこを理解して観ないと、やれ〇〇の生まれ変わりだとか、どこぞの世界に行って天使とあったとかいう非常に危ない相手の言葉にのっかってしまうのでしょう。

    某団体の教祖は釈迦の生まれ変わりだと自分で言っていたそうですが、釈迦に関する本を読んだり、お坊さんの話を聞けば、「いや、お釈迦様は生まれ変わってこないよ」と誰もが思うはずです。

  • #5

    ねこだるま (土曜日, 11 2月 2023 23:05)

    グッビオのオオカミさん:

    >また、統一協会の報道の量が日に日に減っていると感じています。
    >信教の自由はある。しかし宗教だからと言えば何をやっても許される訳ではない事はハッキリすべきだと思います。

    このままだと統一協会問題は立ち消えですね。
    安倍暗殺で一時的に盛り上がり、つながり(疑惑)がある政治家がちょこっとスキャンダルにさらされただけ。
    城の本丸である統一協会本体を宗教法人でなくする、そのために解散請求、という方法手段も明らかなのに。

    カレーせんべいさん:

    日本人がマジを避けるというのはその通りで、明るく楽しい話、POPな雰囲気は好まれるけど、形而上の話、哲学、思想の話、理屈っぽい話などは敬遠される。
    このサイトでは哲学、思想の話をしてもあっち行けということにならないのでありがたいです(笑)。

    あと宗教ってのは神秘主義の中にあるので話が通じなくなってしまい、日本人が求める「和」から遠ざかる、というのもあるかも知れません。
    「難しいこと言っても分からないし、しょうがいないじゃないの。とにかく神サマにはお供えしてお祈りしてりゃいいんだよ」という形式的なものになりがちで、神道などのあり方はそういうところがあるという気がします。形式的なお供え、お祈りでも、何年何十年も続ければ立派な信仰心と言えますが。

    あと日本では唯物論がだいぶ前から席巻しちゃってて、葬式仏教、結婚式キリスト教、神頼み神道という形式でしか宗教に関われなくなって久しいのかも知れません。
    わけの分からない神サマ仏サマを信じるのは楽して得する処世術にはならない。
    そんなことしてたら負け組になるだけでアタマが悪い、ってなもんじゃないでしょうか。

    それでも高邁なものには触れたい、でも自分で考えるのは無理、考えても正しい答えにたどり着くとは思えない、という気持ちをかかえてしまってる人が統一協会とかの新興宗教にハマってしまうのかも知れません。

    おおみや マスクOFFゾロさん:#2

    >フランスの高校生は週に4時間の哲学の授業が必修との事。それは何を期待しての事なのか、という雑談を先週うちのワンマン上司としてました。

    人が科学や哲学を勉強し、考えるのは「役立たずの真理探究」をするということです。
    それによって、政治や処世術とは別の、公平性、公正さといったものが鍛えられることもあると思っています。

  • #4

    輝くような黄色 (土曜日, 11 2月 2023 16:18)

    カレーせんべいさんの「日本人はマジを避ける」は、すごくわかりやすい表現と思いました。
    同質性の強い多数派に属している(隷属している)人間にとっては、その方が心地いいですからね…新興宗教のような異物はそもそも見たくない、考えたくない、ということでしょうか。

  • #3

    枯れ尾花 (土曜日, 11 2月 2023 16:14)

    グッビオさんの仰っている「読書する習慣がない『活字離れ』と非常に関係が深いのだろう」に肯けます。
    読書は父親の影響もあり好きでしたけどどうしても自分の嗜好に偏りがちだったのですが、10年ほど前から地元の喫茶店のマスターが月に一度行う読書会に参加させて頂くようになり、そこでいろんな業界の若い方からご老人まで幅広い年齢層の方々が勧める本を読み、他国の文化や信仰、習慣、風俗といったものが毎回テーマに上がるにつれ相手に自分の考えを伝える訓練をするうちに深くそれらのテーマを考え同時に相手の考えも理解しようとする意識が強くなったように思います。死や宗教について話題にすることは確かに敷居が高いと思いますが、一つの手段としてそのようなテーマを内在するであろう本を通じて考え話し合う機会が得られるのではないかと思います。

  • #2

    おおみや マスクOFFゾロ (土曜日, 11 2月 2023 13:55)

    駅の通路で(私が主導し整理しながら引き渡すまで)てんかん発作で倒れている人を見て見ぬふりでものすごい数の人々が【正常性バイアス?世間に合わせて?】通過し続けていた光景も…こういうものの現れの一つでもありそうですね。あれから3年経ちました。
    それとは別に 7年前には電車内で脱力系のてんかん発作で目の前の人が急に倒れて、2秒後に「出しましょう」と隣に立っていたおじさんに声を掛けて、停車後に引き渡した事があったのも思い出しました。
    そりゃ~何から何まで引き受ける事など出来なくたって、せめてそのくらいは・・・と思ったものです。
    中学生の時の授業中にななめ前の席の女子生徒が硬直タイプのてんかん発作で机と椅子をひっくり返しながら突然倒れてきた事があり、何も動けなかった自分に対して悔しかった思い出が。大人になり「いつかはリベンジしよう」とずっと思っていました。(よしりん先生の辻説法の「てんかんの女子生徒とのあの話」程じゃありませんけど…)

    フランスの高校生は週に4時間の哲学の授業が必修との事。それは何を期待しての事なのか、という雑談を先週うちのワンマン上司としてました。それはグッビオのオオカミ様とはアプローチする方向や対象が異なるものの…この投稿やコメントを読んで「その手もあったか~!」と気づく事も出来ました。

  • #1

    sparky (土曜日, 11 2月 2023 13:35)

    「現在督促をしている。督促してもなお、年度内に提出してこない法人については過料の措置を確実に取りたい」
    年度内とは3月末までにという事か?今月中に位のスピード感が欲しい。勿論結果の報告も、それこそ督促される前に 自 主 的 に。